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2013年1月19日土曜日

Here Come The Sun

日本とイギリスが育んだ音楽の共通点。

音楽だけでなく、文学も映画にも言えることかもしれないが、日照時間の関係や太陽を感じることのできない「冬」という存在から生まれた繊細な部分、暗い部分が感じることができる共通点がある。

それは年々に年を重ねていく(生きていく)ことにおいての積み重ねた人格というべきなのか、意思というべきなのか。音楽の作り手たちにはとてもそういったものからの影響を感じる楽曲や特徴は見離せないし、聞き手としても何かの場面に音楽を重ねる、またはあの時聴いたときの曲を今現在の場面に重ねる場合にとても大切にする照らし合わせだと思う。



ビートルズを年々重ねて聴くと、ジョージの存在が本当に素晴らしいと僕は思う。ポール、ジョンという天才に挟まれながらも自らの存在について考え、メディアに惑わされ、苦悩し天才の目を開いたというところにあると思う。
上の「Here Come The Sun」は、アップルでのミーティング、長い冬に億劫さを溜めたジョージが気分転換にクラプトンの家に遊びに出掛けた際に、その年初めてのハルらしい天気を歌ったもの。
 自然生まれたメロディラインと太陽の喜びを覚えるジョージの繊細が伺える。

イギリスの暗さは、とても嫌いだった。でもここ最近気づいたのはその中の葛藤や爆発から生まれた色々な音楽が存在する。ピストルズのようなパンクも多くのニューウェーブも、ダブも進化させ、生み出したそんな葛藤の爆発的な音楽芸術が多くある。


それと同時期に日本ではMUTE BEATが生演奏にダブを取り入れた。遠くジャマイカから飛び立ったレゲエの胞子が、1980年代のイギリスや日本でダブを育んだり。

ジョージに話を戻すと、ビートルズの後期は類まれなる才能をさらに引き出すため、惹かれるかの如く、ジョージがインドにシタールを学びに行くように世界の様々な民族音楽や楽器に傾倒していく。

それは妥協を求めない音楽追求者としては、当たり前の行動かもしれないが、斬新であり既存の自分を壊す勇気あるリビルド。

ラメルジーの言った「偶像と破壊主義」まさにそのものだ。

僕は「ダンス」というものに10代半ばで興味を持ち、「HIPHOP」という音楽に没頭していた。右も左も分からないが、メディアでしばしば取り扱われていたHIPHOPやブレイクダンスは僕の頭の中で少しずつ胞子が増殖していた。初めて手にしたわけも分からず買ったCD、レコードやビデオを通して少しずつ音楽やファッションに歩み寄る中、いつの間にか文化そのものにドップリ漬かっていた。

元から歴史好きが相成って、しばらく年を重ねた時に、「自分のやっているダンス一体どこからきたのか?」という自分のルーツ探しが始まる。


上で述べたラメルジーは、HIPHOP創世記のレジェンド、「ゴシックフューチャリズム」を提唱し、
既存のグラフィティー概念を逸脱した最重要人物。文字のスタイルを数学的に表現し、HIPHOPお持つ本質を総合的哲学を持ち、自ら具体化している事から僕のHIPHOPに関するイメージがぶっ壊された瞬間だった。当時17歳。

服が、お洒落なサブカルチャーを求めて当時年間購読していた「Relax」が起点で、都築響一さんの「アートランダム」に夢中になり、違う側面で見たHIPHOPに大きく影響されたのを覚えている。

でも僕は若かったので具体的には彼の提唱していたものがあまりにも難解すぎて、「ダンス」というものの魅力には至らず、日の目を見るのはまた何年か後になる。

「BBOYING」というHIPHOPの4台要素といわれるジャンルには相当のコンプレックスがあった。
巷でHIPHOPと呼ばれているものとは、音楽でもファッションでも考え、全てにギャップがありすぎるのが日本の現状であるし、OOOスクールと位置づけられた住み分けがまた僕には違和感に感じたし、反面分かりやすかった。

がむしゃらに踊りたい欲求に身を任せながら「なんで自分はこんなに夢中に踊っているのだろう」という位置づけに結果僕はBOYINGを突き詰めるわけで、その歴史、人物、様々な場所や人、体験で経験していく。

結論的に言うと、憧れまくっていた、僕の世界の 中心であった「アメリカ」は、日本とは違っていた。

HIPHOPはアメリカが生んだアメリカらしい唯一のカルチャーだと思う。

そのルーツには、もちろんブルース、ジャズ、そしてラテンの影響は切っても離せないが、もはやこれらはアメリカの文化ではない。アフリカンであり、スパニッシュであり、南米とラテンの文化であ。
ニューヨリカンというアイデンティティも存在するが、やはり僕の中では違う。


90年代後半から00年初期にHIPHOP、BBOYINGの世界では、「原点回帰」という言葉がターニングポイントだった。僕はそこにドはまりした。
世界に広まったHIPHOPは一人歩きしていた、けど何人かの人達がここにほんでも気づいていた。
発祥のニューヨークシティーで事実を学ばなきゃいけない、知ることが必要と気づいたのは西と東に分かれたアメリカもそうだった。
各々の場所で「進化 」を進めていたことが、ゼロからのスタートになる。とても困惑した時代だった。

僕はある程度を機に「日本人として」というアイデンティティに重きを置き、HIPHOPのルーツでもある、ラテンに傾倒していく。
上の映像は「MAMBO TO HIPHOP」これHIPHOPの歴史を学ぶ上では歴史的映像だと思う。
(誰かDVD返してくれ!)

ここではロックステディーのFABELが自身がニューヨリカンという事もあり、HIPHO`研究家として、
アメリカ史に大いなる貢献していると僕は感じる。「アメリカに歴史はないから」

ここまでいうとちょっと偏りすぎですね。誤解を招きそうだけど。ブルーアイドソウルやブルースロックとして白人たちが、70年代に活動していた何年間はとても素晴らしいことを最近は南ロックを学ぶにつれて感じてます。
でも本当ここの好きな人から学んでいる状態で。

踊りに話に戻すと、やはりアメリカに勝てない日本がいた。HIPHOPが文化のアメリカ、このコンプレックスと闘いながらもう一度の原点回帰はやはり自分が「日本人」であることだった。





2006年にNASが「HIPHOP IS DEAD」のリリース、アメリカのHIPHOPは完全に死んだと。
でも世界で胞子をまいたHIPHOPは各々進化をし、成長を遂げてる。

ちょっと時間がなかったな。

最後はJAGTARAがでもデモDEMOで歌った一言で。

「日本人て暗いね」

これが全て。

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