「どらびでお」を知った瞬間「何か」が壊れた。
ちょうど友人の結婚式で天草に訪れる際、まだじっくり歩いていない九州を少しだけ散歩した時の事。
旅に出てもその町の何か面白いものを探す時、音楽を頼りにする。
そこで知らなかった世界を知ったような感覚や糸が紡がれたように出来事や人が繋がることが良くある。
それから「鈴木昭夫」に今辿り着くには、それからだいぶ後の事だ。
彼の音を出す雰囲気は、神々しい。自然とつられて原点回帰、自分の行動のルーツをたどってしまう。
彼は、本当にシンプルな言葉で僕の踊りにヒントをくれた。
決して自分の行為を説明したり、踊る意味を言葉で説明したいわけではないし、何も考えないよう、自分を発散させる為、体を動かすだけでもなく、誰かに見られ何かを思われその感想を時々聞く事でもない。 全部続ける意味をたどる大きな意味の一つずつ。
音の「なげかけ」と場を「たどる」行為の繰り返し、自分のフィルターを通し(聴く)、「踊る」ということを模索し続けている。
そうなんだと思う。
http://www.akiosuzuki.com/web/profile01.html
とある中国の山間の村を結ぶ谷の道で、とある日本人が、自転車に乗った中国人の男とそこに立ち止まり、すれ違い、通りかかる人達を見た。
自転車を止め、積み荷から椅子を取り出す。村人達はおもむろに腰をかけ、男は腰に据えたハサミを空中に掲げ、動かす。
日本人は、風にそよぐ髪、谷へ吹かれる髪、その情景と手つきに魅了された。
日本人、本田三紀夫の記事を読んだのは高校生くらいだろうか。彼の独特な語りとインタビューを書いた記者のやわらかい記事にまだ若い自分も目をつぶらずともその光景が浮かんできた。
当時はカリスマ美容師なる言葉が生まれ、なりたい職業も人気というくらいに流行していた気がする。その中に一人の落ち着いた美容師のインタビューに僕は胸を掴まれた。
「テクノカット」の生みの親であり、代官山という土地に美容院を出した先駆けの存在、一世を風靡した彼のスタイリストの経歴の中には、多くの著名人がいる。
しかし彼は、ある時を境に何かに気付く。多くの店を持っていた最中に突然彼は全てを投げ出す、といった中盤で記事は局面を迎える。
結果的に、彼は経営していた美容院を譲った。きっかけは上に書いた中国の旅なんだろうか。
ひとつこじんまりとした店のみに彼は注力する。
髪を触って、頭を触って、話を聴いて、初めてイメージが沸く。
いつの間にか数分程度客と接して、少し髪を切って、後は全てアシスタントに任せる事になってしまっていた状況に疑問を持っていた多忙の日々の中彼はシンプルに目覚めた。
目黒にあるbijinには、座る席は一つしかない。昔は電話もない。場所もうっすらとしか教えない。
僕の理想の美容師は、「あの時、見た中国の光景だな。絵になるんだなぁ。」と嬉しそうに答えていた。
通りすがりに髪を切るその光景を待っているのか。この人に髪を切って欲しいという初めての感覚と僕の願いはまだ叶っていない。
http://bijin-mikiohonda.blogspot.jp/
今日の一曲、
このアルバムでふっと何かが抜けたような空間を演じている「Three Views of a Secret」は、
ふと思い出す、そんな名曲。この何年か後に思いがけない出来事で誰も願っていない永遠の眠りに着く事になるジャコパストリアス。ジャズフュージョンってなんなんだろう。ジャコの波乱に満ちた人生に、自身に何を思うんだろう。
温かくなってきた春の気配を感じさせてくれる。けど、また明日から寒くなるんだろう。そんな雰囲気も混じっている。タイトルと曲を重ねて。
Jacoの人生を思う。あっけないと言っていい。儚い。

左手は良好だ。体も戻ってきた。しかしまだまだ思い切ったスタートを切れない微妙な助走に焦りつつ。
カラクタ共和国で音を武器に叫び続けた男の音楽に影響されて熱くなって。
「気付かないように変化していく。」
こんな言葉を彼は残していたみたい。最近ではWax Poeticsでの記事が新しいが、その記事でも引用されている親交のあったカルロスムーアの記事での一文を最後に。
「食べること、飲むこと、そして楽しむこと、なぜなら人は明日には死を迎えるかもしれないからだ」
カルロス・ムーア著「フェラ・フェラ」(フェラ・クティの伝記)より
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